父の看取り
目次
父も波瀾万丈
私の父は、85歳で旅立ちました。
昭和元年生まれだったので、戦争も経験していました。
10人兄弟の末っ子だったので、大層可愛がられて育ったそうです。
母親より姉に大きくしてもらったと言っていました。
戦争に行かなければならないけれど
先陣を切って突っ込んでいくのは嫌だったので
ものすごく勉強して、警察官になり、憲兵になったと話していました。
この憲兵だったことが仇となり
ポツダム宣言によって公職には就けなくなったんだそうです。
ポツダム宣言さえなければ、私は警視総監の娘だったかもしれなかったそうです。
それはさておき。
警察官に戻れなくなったので医学の道を志したそうで、医専(今の医大)に入るも
お金が続かず中退。
それでも、ある程度の能力は得ていたことや、戦後間もないこともあり
レントゲン技師等の仕事をしていたそうです。
やがて、とある小さな病院の娘さんと結婚し、事務長となったみたいです。
ここからの話はコチラ
警察官をしていた頃は、屈強な男だったそうですが
父によると、真偽は定かではありませんが
レントゲン技師の頃
今とは違って、プロテクターなんてせずに
次々とこなしていたから、多分、被爆したのだと・・・
私の知る父は
すごい痩せ型の病弱な人でした。
死ぬと言い続けて半世紀
私が2歳くらいから、幼稚園に入園するくらいまで父は入院していました。
私が物心ついた頃から
「長生きは出来ん」
という父の言葉を聞いていました。
母も体は弱かったので、いつも
「パパとママは長く生きられないから、一人で生きていくんで」
そう言われていました。
幼い私には
両親がいなくなって、一人になるということが
とにかく、怖くて怖くて仕方がなくて
よく泣いていました。
泣いていると
めちゃくちゃ怒られるので
隠れて泣いていました
私が成長していく過程でも
父はしばしば入院しました
成長した私が選ぼうとする道は
どれも父の意に添わず
それでも私が意思を貫こうものなら
父は発作を起こして、母を泣かせる
という荒技を駆使して
私の行こうとする道を阻みました
私が結婚相手に選んだ男性は
ただただ優しい、人のいい青年でした
父の大好物の学歴は、大したことなく
お金持ちでもありませんでした
それでも
発作を起こさず、渋々ながらも許してくれたのは
一等地に家があり
夫の二人の姉が医療従事者
長女が看護師
次女が医者
だったからです
お姉さんが医者なら
婿があてにならなくてもどうにかしてくれるだろう
自分の今後にも使えると考えたと思います。
実際、最期を迎えるまでの2年くらいは
父は義姉にかなり頼っていました。
入退院を繰り返した半世紀でした。
「自分の事だから、自分が一番わかる……もう長く生きられん」
と半世紀の間、言い続けていました。
私と父
ちょっと悪意のある書き方をしていたかもしれません
母に言わせると、私の性格は父に似ていると。
まぁ、性格が母に似ていないことは確かです。
似ている似ていないはともかく
父は、真面目に一生懸命、細かい仕事を几帳面にする人でした。
一方で
いろんなものに興味を持ち、凝ってしまうので、結構な浪費家でした。
多分、私は父が好きだったと思います。
いろんなものを作ったり、勉強する方法を示してくれたと思います。
大人になって嫁ぐまでは、遅くまで呑んで、語り合ったことが何度もありました。
お互い、小難しい持論を展開していたような気がします。
そして、父が望む、父の最期を
何度も聞かされ
託されました。
終盤戦
大腸がん
父の肺と心臓の疾患が重くなり
病院にお世話になる回数が増えました。
この頃、私は実家からは
高速道路をぶっ飛ばしても1時間半はかかる距離に住んでいました。
なので、ちょいちょいの救急搬送の際は
母が一人で対応していました。
私は私で
長男の受験
長女、長男の家からの巣立ち
それに伴う家庭内引っ越し
そして、無償の仕事
……と怒涛の日々でした。
今度は大腸がんも見つかり
もう体力も乏しくなっているし、進行はそんなに早くはないだろうし、
年齢的に考えても、温存しませんかというような医師の提案を受けましたが
父は手術を希望し、術後、自宅に戻りました。
とは言え
肺と心臓の疾患は相変わらずです。
その頃から
母の様子が変だと
父も私も感じ始めました。
大腿骨頸部骨折
そんなある日
父が、自宅で、踏み台代わりに乗った椅子から転落し
大腿骨頸部骨折
高齢者によくある事例です
やはり、持病の状態も良くないので
寝たきりになってもよければ、このまま…
でも歩きたいなら手術をしなければならないと言われました。
実際、家でも、もうほとんど動けてはいませんでした。
それでも
父は、自力でせめてトイレや入浴はしたいとの思いで
手術を希望しました。
ところが
高熱が続き、酸素吸入し
そのうち、経鼻栄養になり
と手術は延期。
母も必死で気丈に対応していました。
父がそんな状態の中
母は実兄の訃報にも接しました。
どうにか手術にこじつけるところに辿り着け
術中死も十分にあり得る状態でしたが
何とか乗り越えました。
私は離婚を企んでいたので
あまり義姉たちに世話になりたくなかったのですが
父は義姉を利用しまくっていました。
その後も、度々重篤化を繰り返し
転落によるけがで入院していた外科では
呼吸器の治療は難しいものでした。
なので、専門的に治療できる病院への転院を母は希望しました。
もう今度こそ長くないので、
苦しませたくないという思いが、母の中では一番だったと思います。
子どもたちを連れて父のもとに訪れたとき
母は転院すると言いました。
少し前に見送った舅(夫の父親)は
義姉たちのできる限りの治療を受けたことで
喉に穴をあけられ、喋れなくなり
点滴だけの栄養補給となり
いわゆる
延命治療でした。
私は、
もう父が一番望むことをサポートするべきだと母に話してみました。
「もし、度重なっているこの重篤化が
専門的な病院なら
こうはなっていなかったのかもしれないけれど
今頃は、管だらけで
ほら、孫に一生懸命話しかけるあの笑顔はなかったよ」
母が、腹をくくってくれました。
父のことは
母が自分で看ると言っていましたが
周囲も母の異変を薄々感じていたこともあり、
全ての判断は私がすることになりました。
プロデュース
早速、
ヘルパーさんや訪問看護の手配、ご近所の医院の先生のお力を借りる段取りを
病院の人に教わりながら進め
一旦、在宅看護という形をとることにしました。
父が自宅に帰ってから数日間は
医療機器等の操作を
私が先に覚えて、母につなげるため
数日は実家で在宅看護をすることに決めました。
病床の父に
「家に帰るよ」と告げました。
すると、あまり出ない声で「頼むで」と私に言いました。
私は、親指を立てて父の顔前に突き出して見せました。
自宅に戻れることを知った父は
それから奇跡的な回復を見せました。
もしかしたら、病床から少しでも離れることができるかもしれない
とまで思えました。
退院当日の朝
急変・・・
父の最期は
私のプロデュースに委ねられました。
正直、結構きつかった。
父の死が…ということではなく
命の進路を私が決めるということが。
ドクターや看護師長さんから
私だけが、父の本当の状態を聞き
選択をしました。
一切の迷いを封印して
退院を強行することに決めました。
ダメだとわかっているからこその介護認定をいただき、退院。
途中で、息絶える可能性も大きいと言われていましたが
なんとか自宅にたどり着きました。
父は自宅に帰れたことを認識できたのだろうか
自宅に戻った父に
異例の酸素の機械2台設置のフル稼働
まともに向き合うことを避けるかのように
母が別室でどうでもいい片づけをしながら
お茶に誘ってきたり
用事を言いつけてくるのを
深刻な状況を突き付けないために
うまく対応しながら
父に寄り添い
だんだん
うまく呼吸ができていなかったり
絶え絶えになるたびに
呼びかけたり、肩を叩いたり……
私にできることは
出来る限りやりましたが
帰宅から 2時間後
他界しました。
間に合った
と解釈するか
母が瞬間的に漏らした通り
退院さえ強行しなければ、もう少し長く生きれた
と解釈するか
最期の最期
火葬場の点火スイッチも
母は強烈に拒み、私が押しました。
否応なしに
身につけざるを得なかった強さの自信は
そのあと一人で生き抜くための
父からの最期のプレゼントだったのかもしれません。
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