周りに翻弄される20代の頃の仕事
大学卒業後、
中学校とか高校で国語を教えていました。
でもこれは、
なりたくてなった仕事ではなかったんです。
親の強い意向を汲み、
心の中で
「3年 やりゃいいんでしょ」と
自暴自棄でした。
責任感は強かったので、
目の前の事には、好き嫌い関係なく
一生懸命になって頑張っていました。
教えることも、どちらかと言えば得意なので、
「先生の授業、めちゃくちゃ楽しい」
「前まで国語嫌いやったのに、なんか面白くなってきた」
とも言ってもらえていました。
でも、やっぱり3年で辞めました。
大学出て、すぐに先生と呼ばれ、
世間を甘く見ていたところもあるでしょう。
教えるのは好きだったけれど、
大学を出てすぐに
先生と呼ばれる人間が集っているところが嫌でした。
自暴自棄で先生になってやったのは、
夢破れていたからです。
高校生の頃
舞台照明の世界に魅せられて、
大学生になると同時に、
とある舞台照明の会社に
弟子入りしました。
家庭教師の掛け持ちで稼ぎ、
舞台照明は
賃金なしで
働かせてもらいながら、
技術を習得していきました。
舞台照明は
舞台を華やがせる光の芸術です。
もちろん、その芸術にも惹かれましたが、
その照明を操る小部屋、
そっちが私にとっては鳥肌モンでした。
その小部屋は、
まるで飛行機のコックピットみたいに
調光を操作する調光卓や調光器盤が詰まっていて、
ワクワクが止まらない感じでした。
下っ端だった私は、
その小部屋に入ることは多くはありませんでした。
仕込みと言われる作業では、
大きくて重い照明機材を運んだり、
バトンに吊りこんでいくんですよね。
いろんな光の色は、
いわゆるセロファンみたいなカラーフィルターを
セッテイングしていくんですが、
赤とか黄色とか言わないんですよ。
それぞれ番号が付いているので、
本当に初期の頃は、
その色の番号を覚えるのも大事なことでした。
あとは、ケーブルをさばいたり。
野外ステージだと、
工事現場でよく見る足場、イントレっていうんですけど、
あれを組んで、
そこに照明を吊りこんでいくんです。
いずれにしても、
体力を要する仕事で、
普通、女の子は
やりたいなんて思わないでしょうね。
ましてや、まだ昭和でしたから・・・
やがて、
「バイト代を出すから、うちで働け」
と言ってくれたところに移りました。
そこは、いわゆるイベンターだったので、
照明だけでなく、
イベントに関わるいろんな仕事もしなければならず、
ジレンマを感じ、
お金に釣られたことを後悔しました。
そんな中、
大手の舞台照明の会社に
紹介してもらえるという、
有り得ないようなチャンスに恵まれました。
夢の実現の
しっぽをつかまえた感じでした。
なんなら、
夢が叶ったかのようなうれしさでした。
双方、仕事の合間に会うことになっていて、
スーツで行くか、仕事着のまま行くかを
悩んだような気がします。
緊張して、手汗をいっぱいかいて、
紹介してくれた人と会いに伺ったのを
断片的に覚えています。
概ね、私の希望は
受け入れていただけそうな手ごたえでしたが、
条件を告げられました。
出された絶対条件は、
仕事優先。
つまり大学は卒業できないかもしれないと。
だから、まずは
その承諾を親にとって来いとのことでした。
私が20代の頃、
女性が、舞台照明の職に就くというのは、
非常に稀でした。
学歴優先の風潮も強かった時代でした。
両親は、
私が土木工事現場のような所で
修行しているのも
薄々知っていたと思います。
当然のこと、
有無をも言わず大反対でした。
それでも、
足がすくむような不安は抱きながらも、
自分の夢に向かうつもりでした。
諦めたのは・・・
当時、付き合っていた男の
つまんない不祥事と
親の真偽不明の命がけの制止でした。
あんなに、叶えたかったんだけど、
憎むべきは
圧力をかけた人たちじゃない。
自分の覚悟の甘さ。
どうしても欲しかったのなら
誰かを悲しませても
捕まえにいくべきだったのよ。
誰かを悲しませることが
できなかった自分の甘さ。
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